文章は常体と敬体のどちらであるべきか

私は長い間、ブログや仕事用の文書などを常体で書くべきか、敬体で書くべきか、考えてきました。

常体というのは「~である。~だ」のような言い切り型の文章で、敬体というのは「~です。~ます」のように敬語で語る文章です。

「自転車は車両である。従って車道を走るべきだ」というのが常体。

「自転車は車両です。車道を走るべきです」というのが敬体です。

 

業務の現場の常体と敬体

セールス目的の文書や、手紙のような特定他者へ送るメッセージなら敬体を使うべきなのは当然です。

しかし、工業製品やソフトウェアの仕様書や、組織の内部で使用される業務用文書まで敬体で書く必要は無いのではないかと、長年考えてきました。

上司へのメールなどは手紙と同様に特定の相手へ送る文書ですので、その文書には自分と相手との関係性が反映されています。

上司へ「タメ口の文書」を送る行為は組織の指揮命令系統と統治を否定する行為ですので、良くない行為になります。

しかし、仕様書や業務用文書は、特定の相手に向けて書かれたものでは無く、不特定複数の相手に向けて書かれるもので、その文書には相手との関係性を反映する事はできません。

仕様書や業務用文書を読む相手は、文書の書き手の指揮命令系統上「上の立場」の人間なのか「下の立場」の人間なのか決まっていません。

上下両方の立場の人間が読むでしょう。

少なくとも敬体で書く必然性は無いはずです。

 

セールス文書の場合は「お客さん」向けに書かれていますので、相手との関係性は明白です。

営業目的の文書は敬体で書くべきでしょう。

 

難しくなるのは、受託仕事で取り引き上の顧客と受託者が同じ職場で働いている場合、受託者が仕様書や業務文書を書く場合です。

私は、この場合も「仕様書や業務文書は不特定複数の相手が読むのだから常体で書くべき」だと思っています。

しかし、現実の業務の世界ではこの場合は「仕様書や業務文書」であっても敬体で書かれていることが多いです。

敬体で書かれた仕様書は大変に読みにくいです。

 

書籍の常体と敬体

最近、科学者や社会学者などその道の専門家が、一般人向けに専門知識の解説書を出版することが多くなりました。

その書籍の文章に敬体を使用している本が多いです。

従来、学者の書く本は常体で書かれる物が多かったです。

学者の本分研究と教育なので書籍を書くとき常体で書くのは当然のことだと思います。

書籍は不特定多数に向けて書かれるものですので、相手との関係性は特定できません。

敬体を使う理由は無いはずです。

 

一般人に対して何かを説得したり、政治的支持を集めたり、何か売り込もうとしているなら、敬体を使う合理性はあると思います。

しかし、学者さんの書籍を読む限り、その解説内容に上記の条件に該当する要素は見当たりません。

特に自然科学や工業技術系は敬体にする理由が分かりません。

論文は常体で書くでしょう。

 

自然科学や工業技術系、法律やその他の「真理」や「公式な規則」を語る文章は、事実を書いているのだから常体で書くべきだと思います。

逆に個人の意見を書くなら、内容によって敬体にすべき物も多いでしょう。

これも絶対に敬体にすべきとは思いません。

 

報道の世界は今でも常体を使う

新聞や政治的な意見や記事が書かれた雑誌などは、イデオロギーにかかわらず全ての文書が常体で統一されています。

先に「事実は常体で書くべき」と言いましたが、報道文書は常体で書かれていますので、これは正しいと思います。

政治的意見は手紙と同じですので、敬体でも良いかとも思いますが、多くの場合は政治的意見は批判の形になる事が多く、常体で書いた方が書きやすいでしょうね。

 

また、事実と意見を同一記事の中で併記している文書が多いですので、常体の方が適切になるのでしょう。

 

私は、報道は事実と意見を分けて書くべきだと思いますが、それを実践している報道機関は存在しませんので、そこを期待するのは無理でしょう。

 

少なくとも報道機関の文章が常体であることは正しいと思います。

 

書籍でも報道の意味合いの強い物は常体で書かれるべきだと思います。

 

敬体は分かりにくい

なぜ私が敬体や常体に拘るかと言えば、敬体で書かれた文章は相手の存在と関係性を意識しすぎて、内容が分かりにくくなるからです。

例えば「間違いの指摘と訂正の文書」を書いて見ましょう。

 

敬体「○○様は『自転車は歩行者と同じですから歩道を走りましょう』とおっしゃいます。

○○様は良心から安全を考えておっしゃっていると考えます。

しかし、法律では自転車は車両として扱われており、歩道を走る行為は違法行為となります。

ご自身と○○様の大切な人々の為にも法律に従う事をお勧めします」

 

常体「法律で自転車は車両として扱われる。自転車で歩道を走る行為は違法だ」

 

敬体はただ文章末尾を「~です。~ます」で締めているだけの文章ではありません。

その文章を読む相手との関係を円滑にする目的で書かれます。

逆に相手との関係を無視した敬体に何の意味があるのか、私には理解できないですね。

 

相手との関係性を意識した文章は、その関係性への配慮の部分が邪魔臭いのです。

純粋に論理的な事実の説明だけを簡潔に読ませて欲しいのです。

余計な配慮など無い、事実の説明だけ書いて欲しいです。

だから私は「余分な配慮の込められた敬体の文書」は読みたく無いのです。

簡潔な文書が読みたいです。

そして、誰でも不必要に長い文書は読みたく無いでしょう。

 

世間の文書は敬体を使いすぎ

私の印象では、世間一般に仕事でも書籍でも過剰に敬体を使いすぎだと思います。

この記事は、読み手への説得を試みる内容ですので、敬体を使っています。

もし、この先に事実や法則や法律規則などを述べる文書を書くことがあれば、常体で書くと思います。

複雑な意見を書くときも、文章を簡潔にする為に常体で書いた方が良い場合も多いと思いますし、私も常体の記事を積極的に書きたいと思います。

 

日本人はもっとケンカをすべき

やたらに敬体を使いたがる行為の背後にあるのは「事なかれ主義」なのではないかと思っています。

日本人はやたらに空気を読んで、周囲の人間との軋轢を避けようとしすぎる傾向があり、結果的に課題の解決を放棄してしまうケースが多いのではないかと思っています。

組織や計画や制度に問題がある場合、問題を解決し制度を変更するとき、必ず意見の衝突は起きます。

議論を中心とした非暴力のケンカをすることなく、問題の解決はできません。

問題は解決するべきですし、「事なかれ主義」を優先して、問題を放置すれば長期的には大きな損害を招きます。

企業なら最悪倒産するでしょう。

やたらに不必要な敬体を使いたがる精神の背後には、あまり尊敬できない意志があるように思えます。

 

これは必要な敬体を否定しているわけではありません。

敬体は必要なときだけ使うべきです。

 

敬体は他人に強要するものではない

優越的地位にある者にありがちですが、他人の文章や言葉使いにやたらに敬語や敬体を使う事を強要する人が居ますが、これは敬体敬語を強要している相手に「自分に都合の悪い発言をさせないため」の方便ですので、従わない方が良いと思います。

相手に服従を要求しているだけです。

 

敬語や敬体は自主的に相手に対する配慮で、使用するべきモノであり、自由意志による配慮の無い、他人に強要された敬語や敬体に意味も価値も無いからです。

配慮が無いのなら常体にすべきです。

その方が正しい関係性が築けるでしょう。

関係を失う事も対立する事も含めて。

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